リチャード・ホガート「The Uses Of Literacy」#1

読み書き能力の効用 新装版 (晶文社アルヒーフ)

読み書き能力の効用 新装版 (晶文社アルヒーフ)

ある書店で設けられていた晶文社コーナーにて、一際目立つその緋色の表紙に惹かれて購入。帯には「大衆文化論の古典」と書かれており取っつきにくそうな印象もあったものの、ペラペラと目を通すと語り口調が軽妙で意外と読み易そうだった。

著者のリチャード・ホガートは1918年イギリス北部の工業都市リーズの労働者の家の生まれ。バーミンガム大学現代文化研究所の所長をつとめ、マスコミュニケーション・大衆文化分析の先駆者として知られ、70年からユネスコのスタッフになったのをはじめ、高等教育、放送、青年問題、演劇など、精力的に社会活動に従事した人らしい。この「The Uses Of Literacy (邦題:読み書き能力の効用)」は1957年に英語版が発行され、1974年に日本語訳版が発行されている。つまり今から50年以上前に書かれた本だと言うことだ。この本は次のような言葉で解説されている。

人々がものを読み、ものを書く能力を体得したことは、民衆の都市文化の形成にどのような影響をおよぼしたか。本書は、週刊誌、大衆小説、ポルノグラフ、流行歌、コマーシャル・ソングなどの近代マスコミが、話し言葉や仲間意識に支えられてきたイギリス労働者階級の暮らしのなかにどのように浸透し、彼らの文化をどのように変えたかを具体的に分析する。
現代イギリスのもっとも刺激的な批評家が、20世紀における大衆文化の形成と衰退の過程を、民衆の側から体験的・実証的に明かした「現代の古典」ともいうべき研究。

先に述べたように50年以上前に書かれた本であるから、ここで述べられているイギリス文化の遍歴もその当時のものであることを想定していなければならない。私が特に興味を持ったのは、「大衆文化」をどう分析するかという考え方とその手法である。調べてみると「カルチュラル・スタディーズ」という研究分野が存在するらしく、著者のホガートはその分野の先駆者であるらしい。そのようなわけで現代の日本におけるマスメディアとWEB上のソーシャルメディア(Twitter, Mixi, Facebook等々)とが複雑に相互作用したコミュニケーションや、それらによって形作られる「世論」「民意」という、なんだかモヤモヤしたものをすっきりとさせたいという欲求から、まずはカルチュラル・スタディーズの古典といわれているこの本をじっくりと読んでみようと思い立ったものである。なにごとも温故知新だからね。

ここでまえがきに記されているホガートの言葉を引用しておく。

私の考えでは、通俗文化について書かれたこれまでの本は、「民衆」という言葉で意味されるのが誰なのかを充分明らかにしていないため、調査分析されている「民衆」生活の特定の側面を、彼らが暮らしているもっと広い生活、民衆が娯楽にもちこんでくる生活態度にうまく関連づけないため、説得力を弱めていることが多いのではないだろうか。だから私は、全体生活の行われる場所の模型、セットをまず試みにつくり、それからその上で力のおよぶかぎり、労働者階級に特徴的な諸関係、生活態度を記述していくことにした。
〜中略〜
私は、まずなによりも、どの階級の出身であれ、真面目な「ふつうの読者」、あるいは「知的な素人(inteligent layman)」に語りかけているつもりなのだ。
〜中略〜
われわれの現在の文化状況をおおっている、もっともあらわに人目をひく不吉な兆候は、エキスパートの専門用語と、マス・コミュニケーション諸機関の途方もなく低いレベルの言語とが全く分裂していることにあるのだから。

この時点で良い本を買ったなという印象を持った。これは期待できそうだ。
本書は大きく分けて2部から成っており、第1部「より古い秩序」、第2部「新しい態度に席を譲る過程」という分類で労働者階級の文化が近代マスコミによってどう変化していくかを論じている。

Ⅰ. 誰が「労働者階級」か?

はじめに「労働者階級」と呼ばれる人々の、ホガートなりの定義が示されている。「労働者」や「ふつうの民衆」について議論するときに最も陥りがちなのがロマンチシズムであり、多くの中産階級出身の小説家や新聞のコラムニスト、さらには労働者階級出身のジョージ・オーウェルでさえもその習慣をまぬがれていないと言う。これらのつくりあげられたステレオタイプな労働者のイメージをホガートは以下のように述べている。

荒っぽく、磨かれていないかもしれない。にもかかわらず、光り輝くダイヤモンドだ。ゴツゴツしている。が正真正銘信頼できる。洗練されていない、知的でもない。が、両足を大地にしっかりとつけて立っている。陽気に腹から哄笑し、人情に厚く、一本気だ。その上かれらは、軽いウィットの入った、きびきびして、ピリッとした話をする。その核には、いつも確固たる常識がある。

ここだけ読むとなんだか宮崎駿監督の「天空の城ラピュタ」に登場する主人公パズーの住む街の人々みたいだな…。とにかく、このような過度に強調された労働者像に一片の真実はありつつも、それが社会的良心に悩んでいる中産階級出の知識人による過度の期待によってふくらまされていることを警告している。
また一方で先に述べたジョージ・オーウェルに代表される、労働者階級出身の物書きについては、労働者の生活については外部の人間が犯しやすい誤解からはまぬがれているものの、生活内部に紛れ込んでいるが故に「古いもの」は「新しいもの」よりもずっとよく、「新しいもの」は断罪すべきものとする、ある種のノスタルジアに染め上げられるきらいがあると述べている。これはホガート自身についても全く同じことが言え、そのために全力を挙げてこの効果を排除し、客観性を確保することに努めたらしい。
結局のところホガートは、「労働者」をおおざっぱに定義するにあたって、労働者階級から同質的な集団をひとつ取り出し、彼らの置かれている具体的な状況と心的態度とを描き出すことで彼らの生活の雰囲気と性質とを呼び起こそうと試みている。この選別にはホガートの幼少期の経験が活かされており、つまりイギリス北部の煙突の煙が立ちこめる街の一角を占める、ゴチャゴチャした労働者住宅街(長屋)に住む人なのだそうだ。借家に住み、週払いの賃金で雇われ(その仕事のほんどは肉体労働である)、小学校程度の教育を受けており、ハスキーボイスで喋る、と。もちろん彼らをさらに差別化することはできるが、ある程度公平に一般化した結果がこうなのだそうだ。

一方、この本を構成する「より古い」と「より新しい」との区別に関してホガートは以下のように述べている。

「より古い」態度を描くとき私は、多くの部分を、約20年前の子供の時の記憶から引き出してきている。
〜中略〜
私が「より古い」態度というときには、現在を攻撃するのにより便利な、かすみの彼方にある、茫然とした牧歌的伝統なぞを引き出そうとして言っているのではない、と。

つまり、ともすれば陥りがちなノスタルジーを排除して客観的に考えるべしということだ。当然のことを言っているようで、こういった客観性の確保ってなかなか実行できないものだと思う。今も昔も人間の心の本質は変わらないようで、特に現代のマスコミは肝に銘じて欲しいのだが。
ともかくこれ以降、まずはホガートが示すところの「より古い」労働者像にフォーカスして話が進められていく。(「より新しい」民衆についてはもう少しあとの章で触れられているので、その話はまた次々回に)

Ⅱ. 人間のいる風景

この章では話し言葉(スラング)、家庭とそこにおける母親、父親の立場、そして隣近所との関係性について具体的な「より古い」労働者像が述べられている。ここで驚くべきがそのどれもが俗に言う「古き良き昭和の日本」と一致していることだ。私は四国の香川県の、さらにはずれの田舎町(家から小学校まで歩いて1時間以上かかる!)出身であり、幼少期をまさにこのような家庭で過ごした経験から、そのあまりの酷似ぶりに笑ってしまった程である。つまり、「私しゃ医者なんて信じないよ」という偏屈バァさんがおり、子供は青年期まで、ともすれば結婚して家庭を持つまでズッと甘やかされ、避妊せず子供がポンポンでき、父親は金を稼いでくる代わりに家事には手を出さず、虫の居所が悪ければ母親をひっぱたく。日曜の朝だろうが店の裏手に回れば主人が店を開けて商品を売ってくれ、代金が足りなければツケで済ます。長期の旅行には殆ど行かず、地域のクラブ活動(こども会のバーべーキューやキャンプ)に参加し、秋には祭りの準備に数ヶ月が費やされる等々。この章で述べられている20世紀初頭の英国と私の幼少期では位置的にも時間的にもかなり離れているにも関わらず、挙げればきりがないほど類似しており非常に興味深かった。


ということで、ホガートの定義に当てはめると私は労働者階級の生まれと言ってもさしつかえないようなので、機会があればバイオグラフィーに「四国は香川県の労働者階級の生まれ」とでも書こうか。しかしこれはOASISに代表されるところの、「イギリス北部の労働者階級の生まれ」のように格好良く響かないな。慎むか。。。

次回は労働者階級と中産階級の違いに焦点が当たるようであるので、じっくり読み込んで書きたいと思う。