リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』

舞踏会へ向かう三人の農夫

舞踏会へ向かう三人の農夫

 リチャード・パワーズのデビュー作を読み終えました。

 第一次世界大戦の直前に写真家アウグスト・ザンダーが撮影した『舞踏会へ向かう三人の農夫』という写真、その背後にあるストーリを追い求めていく「私」は、世界大戦に翻弄された自動車王フォードやフランス人女優ベルナールの生涯を調べるうちに、自ら物語を創造するようになります。これが「三人の農夫」、そして鑑賞者として歴史の流れに巻き込まれていく「ピーター・メイズ」の話であり、これら3つの物語が並行して進行していきます。
 これらの物語の根底には「機械的に複製可能なモノが溢れるようになった世界で、如何にして自分だけの特別な芸術が存在し得るのか?」という問いがあるのですが、この問いに対する「私」の考察が哲学的で冗長な部分がありまして、正直なところ中盤まで読み進めるのはなかなかしんどい作業でした。終盤に入ると一気に物語が動き出して怒涛の展開をみせるのですが、そこにたどり着くまでに挫折する人も結構な数居るんじゃないでしょうか。
 結局のところ「三人の農夫」の話と、「ピーター・メイズ」の話は「私」の考える【被写体と鑑賞者との相互作用】のメタファーとして形作られた物語なので、終盤で史実として語られるミセス・シュレックの物語と食い違う部分も顔を覗かせます。この物語のほつれは幻想的な寓話によって橋渡しがなされていまして、3つの物語が繋がり得る可能性を見出すこともできます。「私」も作中で触れていますが、この、【読んでいる私自身が、物語を補完する】という行為こそ、複製可能なものを唯一の芸術に仕立て上げる重要なプロセスなのだろうかと考えさせられました。