リチャード・パワーズ「舞踏会へ向かう三人の農夫」-メモ#1-

舞踏会へ向かう三人の農夫

舞踏会へ向かう三人の農夫

ピンチョン『メイスン&ディクスン』を読んだ興奮冷めやらぬまま『逆光』を読み進めようかと思ったのですが、なにぶんアメリカ文学初体験でピンチョン漬けってのも偏愛じみてるよなぁと感じたので、リチャード・パワーズのデビュー作をクッションに挟んでみることにしました。何故パワーズかと言うと、物理学専攻でプログラマを経て小説家、という彼の経歴に対して親近感というか、憧れを感じたのかもしれません。
リチャード・パワーズ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%BA

で、前のエントリで『メイスン&ディクスン』の読後の感想を書くために細部を思い出そうと四苦八苦したこともあり、『舞踏会へ向かう三人の農夫』を読み進めながらメモをとることにしました。

  • 「私」の物語

「私」は仕事を求めてボストンへ向かう途中、列車の乗り換えのために立ち寄ったデトロイトの美術館にてメキシコ人壁画家のディエゴ・リベラが製作した壁画、そしてアウグスト・ザンダーが撮影した写真【舞踏会へ向かう三人の農夫】に強く心を惹かれる。ここではリベラの壁画に描かれている人物について

この顔、私達の時代を体現する顔のなかに、かの悪戯を読みとり謎を解くに必要な証拠はすべて揃っていた。この混成の顔を、私がそのとき正しく見てとっていたなら、その他の手がかり—デトロイト、リベラ、フォード、自動車、機械的複製、肖像画エーテル、相対性—を追って無駄にした時間は、一年短くできたかもしれない。

という回想が挟まれておりこれらが物語のキーワードになりそう。「私」はその後ボストンにて職を得るのだけど、件の写真に関しては調べるものの有力な情報を得られないでいた。

  • 「三人の農夫」の物語

1914年のドイツにて。アドルフ、ペーター、フーベルトの三人の若者は、祭へ向かう途中にドイツ人写真家のアウグスト・ザンダーに出会い写真を撮られることになる。その後、最年長のアドルフは兵役、戸籍上の弟のペーターは肥満した未亡人との恋、そして最年少で労働者主義的な革命思想に取り憑かれているフーベルトは、ドイツ軍が祖国ベルギーに侵攻するという噂を聞き、ショットガンを携えてベルギーに向かう。

  • 「ピーター・メイズ」の物語

ボストンの技術専門誌「マイクロ・マンスリー・ニューズ誌」の編集部で働くピーター・メイズは、第一次世界大戦の休戦祝日のパレードにて赤毛の女性を見かける。行方を捜すメイズだったが、手がかりは赤毛であることと、その女性がクラリネットを手にしていたことだけだった。


これら三つの物語が並行して語られる合間に「私」の回想として記録写真家であるアウグスト・ザンダーの生涯が語られます。
アウグスト・ザンダー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC

「二十世紀の人間たち」と題してあらゆる職業、階級の人々を"美化せず、ノスタルジアを廃して"写真に記録しようとしたザンダーはナチスから迫害を受け、第二次世界大戦後の混乱にて膨大な記録ネガをも焼失してしまったようです。「私」は回想で、ザンダーがこの記録写真を通じて一つの真理に辿り着いたと述べていますが、これは「見るものと見られるものとは、融合して不可分のひとまとまりを成す。距離を置いて物体を見ることは、すでにその物体に働きかけること、それを変えてしまうことであり、みずからも変えられてしまうことなのだ。」というもの。この真理、どこかで聞いたなぁと思ったら、村上春樹の『海辺のカフカ』にも引用されていた19世紀の哲学者、ヘーゲルの言葉そのものじゃないですか。

「私は関連の内容であると同時に、関連することそのものである」
ヘーゲルは自己意識というものを規定し、人間はただ単に自己と客体を離ればなれに認識するだけではなく、媒介としての客体に自己を投射することによって、行為的に、自己をより深く理解することができると考えたの。それが自己意識」
「私たちはこうしてお互いに、自己と客体を交換し、投射しあって、自己意識を確立しているんだよ」*1

とりわけパワーズの記述の仕方が面白い!物理学を学んだ人はお気づきだと思いますが、"物体を見るということは、その物体に働きかけること"、つまり観測する行為そのものが観測対象の状態を変化させうるという量子力学の理とヘーゲルの言葉とをシンクロさせているんですね。このあたりに理系出身の中二病な雰囲気が醸し出されていてニヤリとさせられてしまいました。

さて、第一章から第七章までを軽くまとめてみましたが、これら三つの物語がどう交差していくのか。七章で突然「私」が第一次世界大戦について述べ始める場面はちょっと冗長かも?